似てる?度は70%くらい
オールバックの髪型が似てる
歴史学者・刑部(おさかべ)芳則さん
(鬼の副長)
日野市立新選組のふるさと歴史館
土方歳三資料館
多摩都市モノレール万願寺駅より徒歩約5分
土方歳三生家跡にある。
歳三の次兄(喜六)の子孫が運営している。歳三は六男である。名前の「三」から三男に思えるが歳蔵→歳三に改名している(経緯は知らない)。
(私の訪問以降の2018/5/30、テレ朝・じゅん散歩「鬼の副長・土方歳三の子孫」が放送されている)
土方歳三像
近藤勇像
新選組と言うのに近藤勇は何故組長でなく局長と言うのかずっと疑問を持っていて今回初めてインターネット「新選組ナビ」で調査すると下記である(引用のもの写真の下に添付)。そこは新撰組とあり、新選組と2種類の表記があるようだ(歴史館、資料館では新選組。一般的にも新選組が多い)。
「新撰組・局長」の意味とは
新撰組という名前は勝手に自ら名乗ったものではなく、壬生浪士組が功績を上げた時点で幕府を通じて朝廷から賜ったものです。
新撰組という名前になってからは、会津藩預かりとなり幕府の指揮下に置かれました。
幕府の体制の中では、会津藩の指揮下に置かれた新撰組は下部組織としての「局」という扱いになったのです。
壬生屯所を「新撰組」という名の部署・事務所とした、なのでその長の近藤勇を局長と呼んだとされています。
しかし、会津藩の記録などには近藤勇や芹沢鴨らを「隊長」と称しています。
壬生の旧前川邸に残された近藤勇直筆の落書きにも「会津新撰組隊長・近藤勇」と書かれています。
このようなことから、「局長」も「隊長」もどちらも間違いではなく、両方使用されていたのではないかと思われます。
また、幕府内での正式名称が「局長」で、仲間内では明確な決まりはなく、その時に応じて「隊長」「組長」などと称していたという推測も成り立ちます。