似てる?度は65%位
(名前も「ミ」で始まってる)
ミロン・フェドリーシンさん
9/1、朝日新聞朝刊 p.2に登場
ウクライナで日本文学を半世紀にわたり紹介し続ける
9/1、朝日新聞朝刊 p.1に登場
(丁度、ミロン・フェドリーシンさんの記事と表裏にありペアをなしていた。)
8/31、朝日新聞夕刊 p.1
初めてゴルバチョフ氏 死去の報
旧ソ連最後の最高指導者
INF全廃条約署名 冷戦終結
日本は言うに及ばず世界的にも「ゴルビー」の愛称で親しまれた。
以下インターネットよりコピペ
「一九八七年十二月八日が、核脅威の増大時代と人類の生活の非軍事化時代とを分ける分水嶺を意味する記念日として、歴史の教科書にのるようにしようじゃありませんか」(ミハイル・ゴルバチョフ『ゴルバチョフ回想録 下巻』工藤精一郎・鈴木康雄訳、新潮社)
ソ連書記長だったミハイル・ゴルバチョフ(当時56歳)が、時のアメリカ大統領ロナルド・レーガン(当時76歳)とともにINF(中距離核戦力)全廃条約に調印し、上記のように高らかに宣言してから、きょうで30年が経つ。核兵器を削減する条約が結ばれたのはこれが史上初めてであった。
米ソ両大国がINFの削減交渉(当初の名称は戦略核交渉)を開始したのは、レーガン政権の発足まもない1981年11月のこと。ただし、交渉は難航し、一時は中断した。そこへ来て1985年にソ連書記長に就任したゴルバチョフは、核戦争の脅威やそのほか全世界的課題の解決のため各国の協力を強調する「新思考外交」を展開し始めた。1986年10月のレイキャビク(アイスランド)での米ソ首脳会談でゴルバチョフは、INF問題に関してイギリスとフランスの核兵器を対象外とすることで西側の優位を認め、また極東方面配備のソ連のINFの制限などを提案する。このときの会談で両首脳は、ヨーロッパ配備のINFの全廃でも一致したが、ゴルバチョフが合意の条件としたアメリカのSDI(戦略防衛構想)の制限をめぐって折り合いがつかず、けっきょく決裂にいたった。
私は、米ソ首脳会談が行われたレイキャヴィク(アイスランド)に行って来た。
(私はReykjavikのスペルより「ヴィク」とした)
Iceland
(世界最北の首都)
空港
ハットルグリムス教会
ハットルグリムス教会より
中心部の眺望
(この中に首相官邸、国会議事堂も含まれている)
迎賓館
(1986年10月、レーガン大統領とゴルバチョフ書記長の会談場所)
ゴールデンサークル
グトルフォスの大滝
今回の旅行は下記如く18日間の長旅だった。
2011
4/ 1 (金) D:11.30 NH 201 成田発
A:16.00 ロンドン着(3泊)
4/ 3 (日)D: 8.30 ロンドン発
A:10.11 ポーツマス着
D:13.08 ポーツマス発
A:13.54 サウサンプトン着
D:16.25 サウサンプトン発
A:17.49 ロンドン着
4/ 4(月) D: 8.51 ロンドン発
A: 9.52 オックスフォード着
D:12.01 オックスフォード発
A:12.25 レディング着
D:12.41 レディング発
A:14.22 カーディフ着(1泊)
4/ 5(火)D: 9.45 カーディフ発
A:11.45 バーミンガム着(1泊)
4/ 6(水)D: 9.01 バーミンガム発
A:10.44 リヴァプール着(1泊)
4/ 7(木)D:13.00 リヴァプール発
A:13.50 ベルファスト着(1泊)
4/ 8(金) D:17.10 ベルファスト発
A:18.00 エディンバラ着(2泊)
4/10(日)D: 9.18 エディンバラ・ズー発
A:10.19 グラスゴー着(1泊)
4/11(月)D:14.20 グラスゴー発
A:15.40 レイキャヴィク着(3泊)
4/14(木)D: 7.50 レイキャヴィク発
A:12.20 オスロ着
D:13.45 オスロ発
A:14.35 ベルゲン着(1泊)
4/15(金)D:11.55 ベルゲン発
A:12.45 オスロ着
D:15.15 オスロ発
A:16.10 ストックホルム着(2泊)
4/17(日)D:15.55 ストックホルム発
A:18.05 ミュンヘン着
D:20.55 ミュンヘン発
4/18(月)A:15.25 成田着
上記以外、
北欧はノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの他、西・中央・東ヨーロッパを含む全ヨーロッパ諸国に行っている。
(コーカサス3国はコロナ禍で予約キャンセルを余儀なくされた)